— 嘉義農林「KANO」のものがたり
最初に一言で。
1931年の夏、台湾代表・嘉義農林(KANO)が“ただ一度”甲子園に出場し、準優勝しました。
日本人・台湾人・原住民の高校生が同じユニフォームで戦った、その事実が今も語り継がれています。

1|南の小さな農業学校から
舞台は台湾南部・嘉義(かぎ)。学校名は嘉義農林学校。
「KANO(カノー)」はKagi Norinの頭文字で、当時からのニックネームです。
グラウンドは土と風。朝の練習は畑仕事の匂いが混ざる。野球部には、日本人・漢人系の台湾人・原住民の生徒が肩を並べていました。言葉や育ちが違っても、白球を追うときはただのチームメイト。ここにKANOの核があります。
2|コーチと約束した“基本”
就任した日本人コーチ(のちに映画でも描かれます)は、まず走塁・守備・送りバントを徹底。
派手さはないけれど、当たり前を何度も積む。ミスを責めない、次のプレーへ切り替える――KANOの野球は「気持ちを前へ運ぶ」設計でした。

3|海を渡って、甲子園へ
夏。彼らは船と列車で日本へ向かいます(当時は海路移動)。
甲子園の土は、想像よりも柔らかかった、と回想されています。外野の芝、スタンドのざわめき、電光掲示のきらめき。**「台湾代表」**の三文字が、いちいち胸を鳴らしたでしょう。
試合が始まると、KANOは守って、走って、つないで勝つ。最後の一打まで諦めない“泥くささ”が、スタンドの空気をこちらに引き寄せていく。
勢いは止まらず、決勝へ。
結果は――準優勝。優勝旗には手が届かなかったけれど、拍手はいつまでも鳴りやみませんでした。
大事なのは、点差より「何が見えたか」。
異なるルーツの10代が、同じ胸マークで肩を組んだ――その景色です。
4|なぜ“ただ一度”が、こんなに長く光るのか
- 多民族のチームが「台湾代表」として日本の全国大会で躍動したこと。
- 地方の農業校が、ひたむきさだけで全国の心を掴んだこと。
- 負けたあとも、拍手と敬意が続いたこと。
この三つが、時代を超えて物語の芯になりました。
映画『KANO』で再び注目され、いまも台湾と日本のあいだで**“共有できる記憶”**として語られています。
5|いま、嘉義でできる小さな“聖地巡礼”
嘉義の街には旧球場ゆかりの場所や、KANO展示を置く施設があります(時期で展示は変わります)。
行ったらぜひ、風の向きと土の色を確かめてみてください。
遠い昔の高校球児が、同じ空の下で走っていたことが、不思議と近くに感じられます。
6|キーワードでさらっと復習
- KANO:嘉義農林の略称(Ka-gi No-rin)
- 1931年:夏の大会に出場、準優勝
- チーム構成:日本人+台湾人(漢人)+原住民
- スタイル:堅守・機動力・つなぐ野球
- 意味:台湾と日本をつなぐ“高校野球の記憶”
おわりに:土と汗は、国境をこえた
KANOの夏は、野球が好きだという気持ちだけで成立した物語です。
政治や国籍の話はたしかに背景にある。でもグラウンドでは、走る、捕る、投げる、ただそれだけ。
だからこそ、あの準優勝は**ふたつの国にとっての“良い思い出”**になりました。
甲子園の土を握りしめた彼らに、今も心の中で拍手を。